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谷口 友孝
東京都
技術士

ODA・イラク復興支援に携わった人。医者、大学、会社に人生を預けないために――正解の中で、一回壊れた人。

第一章
医者は、私の人生までは知らない

人生は、誰かの正解に預けた瞬間からつまらなくなる。私は一九五三年に東京・大田区で生まれ、技術士として政府開発援助に携わり、イラク復興支援にも関わった。五十二歳で進行がんを告げられ、五十七歳で東大大学院に入り、いまは執筆や研究、町内会の活動をしている。

その歩みで何度も突きつけられたのは、正解らしきものはたいてい誰かの都合でできている、ということだった。学校の正解、会社の正解、親の正解、医者の正解、世間の正解。従えば安心できるが、その安心と引き換えに、自分の足で立つ力は少しずつ失われる。

大田区で育ったころ、町には草むらや長屋があり、人との距離も近かった。だが、時代も町も人も変わる。私自身も、大学でつまずき、工場の現場で働き、昼休みに英字新聞を読み、海外へ出て、資格を取り、道を作り直してきた。人生で問われるのは、正解を選べるかどうかではない。誰かの正解に頼れなくなったとき、自分で見て、自分で考え、自分で動けるかどうかだ。

第二章
支援する側の正しさが、人を見えなくする

善意は、相手を見なければただの押しつけになる。イラク復興支援の現場で、私はそのことを痛いほど感じた。戦争が終わった後、通信インフラを立て直す仕事に関わり、ヨルダンに事務所を置いて、必要があればイラク側と連絡を取る体制で進めた。現地は厳しい状況だったが、そこで出会った人たちは親切で、しっかりしていて、優しかった。

支援する側が偉いわけではない。むしろ、こちらが教えられることの方が多かった。支援とは、物を届けて終わりではない。金を出すことでもない。何をすれば相手が本当に喜ぶのか。何を望み、何に困り、何に傷ついているのか。それは現場に行き、話をしなければわからない。

これは国際協力だけの話ではない。クラスで孤立している人、バイト先で疲れた店員、近所でひとり暮らしをしている高齢者。助ける前に、こちらの思い込みを捨てられるかが問われている。

第三章
医者の言葉を、人生の結論にしなかった

専門家の言葉は判断材料にはなるが、自分の人生をどう生きるかまで決めてくれるわけではない。病気になると、人は急に「患者」になる。それまで名前で呼ばれていた人間が、病名や検査値や治療方針で語られるようになり、白衣を着た人の言葉が、自分の人生よりも大きく見えてくる。もちろん医者の知識や経験を軽く見るつもりはない。だが、医者が知っているのは病気のことであって、その人が何を大切にしてきたかまでは、こちらが伝えない限りわからない。

五十二歳のとき、私は血液のがんを告げられた。イラク関連のプロジェクトの最中で、治療の話を聞いたときに頭に浮かんだのは、余命だけではなかった。この治療を選んだら仕事はどうなるのか。治療で得られる時間と、治療によって失う時間は、どちらが自分の人生に合っているのか。そこまで考えなければ、自分の人生を決めたことにはならないと思った。

これは病気だけの話ではない。進路を決めるときの先生の言葉、就職を決めるときの会社名、親や世間が勧める無難な道。もっともらしい答えはどこにでもあるが、それが自分の生き方に合っているかは誰も代わりに考えてくれない。大事なのは、専門家に逆らうことではなく、聞いたうえで自分でも考えることだ。事実は何か、選択肢は何か、それを選んだあとにどう生きたいのか。この三つを考えないまま従うことは、決断ではなく委任である。

病名は、人生の終わりを告げる言葉ではない。自分の人生を誰が決めているのかを問い直す言葉である。医者の言葉を聞く。家族の心配も聞く。情報も集める。そのうえで、自分の生き方を自分で選ぶ。病気から受け取ったいちばん大きな教訓は、人生の主導権を手放さないということだった。

第四章
東大に入っても、人生は救われない

成績は人を選別できても、答えのない現場で自分を支える信念までは育てられない。私は五十七歳で東京大学大学院に入った。国際協力の経験を学問として捉え直したかったことに加え、がんを告げられてから、医療を患者の側から考える必要を感じていたからだ。治療は医学の問題であると同時に、人生の問題でもある。その違和感が、私を大学院へ向かわせた。

東大には優れた教授や研究者がいた。だが医学部の研究室でアジアのがん研究に関わると、知識だけでは現場は動かないと分かった。研究室には医師が多く、私は医師ではなかった。ヨルダンで培った人脈を使い、現地の大学に頭を下げ、説明し、協力をお願いする役割があった。そこで必要だったのは肩書ではなく、相手の事情を聞き、自分の言葉で伝え、信頼をつくる力だった。

東大という名前も、医師という資格も、それ自体が人を動かすわけではない。教養とは、自分の価値観や世界観を持ち、それを現場で使えることだ。若い人は、テストの点、学校名、就職先、SNSの反応で早くから比較される。だが、戦争後の国をどう支援するか、がん患者がどう治療を選ぶか、地域で困っている人にどう声をかけるか。そういう問いには解答用紙がない。偏差値では信念は育たない。困っている人の前で逃げない人の方が強い。

第五章
教養は、町内会でバレる

教養は、難しい言葉を知っていることではなく、目の前の人に気づけることだ。定年後、私は地元の町内会に関わるようになった。現役のころは海外の現場にばかり出ていて、自分の住む町のことをほとんど知らなかった。町内会に入って初めて、近所にどんな人が住み、誰が困り、どこに課題があるのかが見えてきた。

回覧板、掃除、会計、花見、祭り、夜回り。若い人から見れば古くさく見えるかもしれないし、実際、古いやり方も多い。私は会計事務をデジタル化したし、回覧や集金ももっと変えられると思っている。だが、古いから無価値なのではない。そこには、人と人が顔を合わせる仕組みが残っている。

地域は小さな大学だ。車椅子で外に出にくい人がいれば、どうすれば花見に連れて行けるか考える。高齢者がスマホを使えないなら、どう伝えるか考える。面倒くさいと思うことの中に、社会の本当の課題がある。教養とは、課題を見つけ、相手のために動く力だ。

第六章
タダ働きで、人間が出る

報酬がない場所で何をするかに、その人の本当の値打ちが出る。仕事では給料をもらう。だから成果を求められ、評価され、比べられる。それは当然だ。だが、無報酬の活動では少し景色が変わる。町内会の掃除をしても、夜回りをしても、誰も点数で評価しない。返ってくる言葉は、たいてい「ありがとう」だ。

私は海外支援の仕事を通じて、ギブ・アンド・テイクではなく、ギブ・アンド・ギブの感覚を覚えた。何かをもらうために与えるのではない。相手が喜ぶなら、それでいい。家族にも、地域にも、国際社会にも、そういう関係は必要だ。

私は店で会計をしてもらうとき、「お願いします」「ありがとう」と言う。小さなことだが、そこに人間関係の入り口がある。若い人は、学校、SNS、バイト、就活と、評価される場所にいる時間が長い。だからこそ、評価されない場所を一つ持った方がいい。誰かに褒められるためではなく、ただ手を動かす場所。人間は、肩書ではなく、何も返ってこない時の行動で見えてくる。

第七章
死ぬ話をすると、今日が見える

死を考えることは、暗いことではなく、今日を雑にしないための技術だ。人は誰でも死ぬ。けれど若いころは、そのことを遠くに置いておきたがる。私もそうだった。しかし、がんを告げられてから、死は急に現実の輪郭を持った。そこでわかったのは、死を考えることは「いつ終わるか」を数えることではなく、どう生き切るかを考えることだということだった。

最期は最後の日だけの話ではない。そこに至るまでの仕事、家族、地域、感謝、やり残したことの全部が最期を作る。だから、最期の質は今日の過ごし方で変わる。誰かと比べるのをやめる。自分の言葉で決める。「ありがとう」を言う。困っている人に気づく。そういう小さなことが、最後の風景を作る。

医者、会社、親、社会。どれも必要だが、人生を丸ごと預ける相手ではない。死を考えると、逆に今がはっきりする。今日何をするか、誰に会うか、何を手放すか。死を恐れるより、生き方を設計する。最期を考えることは、いまの自分の優先順位を取り戻すことでもある。

第八章
君の人生を、誰にも預けるな

本当に学ぶ場所は、学校の外にも必ずある。私にとって東大は大きな学びの場所だった。けれど、それだけが大学ではない。地域社会も大学だ。海外の現場も大学だ。病気も大学だ。失敗も大学だ。人は、予定どおりに進んだ場所よりも、思いどおりにいかなかった場所で多くを学ぶ。

自分の町を知らないまま世界を語る。隣の人を見ないまま社会問題を語る。自分の人生を決めないまま将来を語る。そういう空っぽの言葉が、いまの社会には多い。遠くを見るなと言いたいのではない。遠くを見るなら、まず足元も見ろと言いたい。

外に出て挨拶をする。近所の人と立ち話をする。掃除に参加する。困っている人がいたら、何が必要かを聞く。それだけで、世界の見え方は変わる。大きな理想を語る前に、半径数メートルの人を喜ばせる。それができないまま語る正義は、どこか軽い。

教養は、立派な肩書の中ではなく、困っている人の前で試される。大学は、偏差値表の中にだけあるのではない。誰かの顔を見て、自分で考え、自分で動き始めた場所にある。

人生は、誰かの正解に預けた瞬間からつまらなくなる。

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