東京都
会社員・科学・寺・短歌を生きた人
会社も、科学も、信仰も。ひとつの型では、人間は語れない。人生は、少し余る。
第一章
人生、字余り
人間は、きれいに収まった瞬間につまらなくなる。世の中は、人をすぐに分類したがる。仕事で見る。肩書で見る。家族の中の役割で見る。信仰で見る。そうすれば説明は早い。けれど、早く説明できるものほど、たいてい大事なところを落としている。
短歌には五七五七七という型がある。型があるから、言葉は締まる。だが、人間は短歌ではない。五句に収めようとすると、必ずどこかが余る。母の声が余る。会社で覚えた理屈が余る。寺での時間が余る。科学へのひっかかりが余る。老いた身体の鈍さまで、勝手に行の外へ出てくる。その余りを、私は捨てたくない。きれいな人生訓にすれば、聞こえはいい。けれど、きれいにしすぎた人生は、本人から遠い。迷い、冗談、言い訳、照れ、わからなさ。そういうものを抜いた人間は、立派ではあっても、生きている感じがしない。
自分史がつまらなくなるのは、人生を順番に並べたときではない。人間を、ひとつの意味で回収したときだ。あの経験があったから今がある。そう言い切れれば楽だが、実際はもっと散らかっている。大きな意味の横に、どうでもいい会話がある。立派な決断の横に、しょうがねえなという諦めもある。字余りは、失敗ではない。型に入らなかった分だけ、そこにその人の癖が残る。人生は、少し余るから読める。少しはみ出すから、まだ考える余地がある。
第二章
パターンなし、熟考あり
パターンがないとは、何も考えていないということではない。むしろ、何度も考え直してきた人間ほど、ひとつの型だけでは動けなくなる。世の中では、自分の流儀を持つ人が強く見える。これで行く、と決めてしまえば迷いは減る。だが、その代わりに、目の前の違いを見落とす。
私は、決め打ちがあまり得意ではなかった。会社には会社の理屈がある。海外には海外の空気がある。寺には寺の時間がある。親には親の言い分があり、子には子の事情がある。科学には科学の正しさがあり、短歌には短歌の定型がある。どれも捨てるものではない。だが、どれか一つを万能の鍵のように扱うと、途端に乱暴になる。だから私は、その都度考えるしかなかった。かっこよく言えば熟考だが、実際はもっと不器用なものだ。すぐには答えが出ない。出ないから、また考える。
自分のパターンは何かと聞かれても、うまく答えられない。むしろ、いろいろありすぎる。親のパターン、会社のパターン、寺のパターン、文章を書くときのパターン。どれも頭の中にあるのに、そのまま一枚で使えるものがない。だから、少しずつばらして、その場に合う形に組み替える。それはアドリブとは違う。前の答えをそのまま使わないだけだ。一度うまくいった方法は、次も使いたくなる。けれど、その誘惑が危ない。昨日の型は、今日の現実を少しずつ見えなくする。
私は、自分の中に立派な思想が一本通っているとは思わない。むしろ、バタバタやりすぎてきたという感覚の方が近い。ただ、そのバタバタの中で身についたものがある。変わり目では、急がない。誰かの型をそのまま着ない。いったん止まり、手元にある経験をほどき直す。パターンなし、熟考あり。それは強い言葉ではない。だが、ひとつの答えで人生を押し切れなかった私には、いちばん正直な作法である。
第三章
DNAとの鬼ごっこ
血筋ほど、逃げたつもりの背中を正確に追ってくるものはない。DNAという言葉は、科学の言葉である。けれど私にとっては、もっと生活に近い。ふとした言い方、妙なところで出る臆病さ、笑いでごまかす癖。自分だけのものだと思っていた反応の奥から、親や家の気配がふいに出てくる。
しかも、都合のいいときには出てこない。うまくいっているとき、人はだいたい自分の力だと思っている。ところが、好ましくない結果が出たときだけ、血が顔を出す。これは父の影か。母の癖か。そうやって、失敗に古い名前をつけたくなる。ずいぶん勝手な話だと思う。母方の良いDNAにはあまり感謝しないくせに、悪いことが起きると、悪いDNAのせいにしたくなる。人間は、手柄は自分に置き、失敗は血筋に預けたがる。その弱さも含めて、DNAは手ごわい。
もちろん、すべてをDNAで説明するのは逃げである。だが、すべてを自分の意思だけで説明するのも、どこか嘘くさい。人間は完全なオリジナルではない。受け継いだ型を持っている。親の言葉、親の沈黙、家の空気。そういうものが、年を取ってから別の顔で戻ってくることがある。ここで大事なのは、血を美しく語りすぎないことだ。血は誇りにもなるが、言い訳にもなる。だから、受け継いだものを丸ごと抱きしめるだけでは足りない。ときには疑い、ときには笑い、ときには横へ逃げる。
鬼ごっこに似ていると思うのは、そこに完全な勝ちがないからだ。逃げ切ったと思えば、また後ろにいる。親に似たくないと思うときほど、親に似ている。けれど、似てしまった自分を少し違う方向へずらすことはできる。DNAは型である。だが、刑ではない。追ってくるものを否定しすぎず、かといって従いすぎず、距離を測りながら走る。私の鬼ごっこは、まだ終わっていない。終わらないから、また考える。
第四章
親子の距離は、糸電話で測る
親子は、近ければ伝わるというものではない。糸電話は、糸を張らなければ声が届かない。だが、強く引きすぎても、たるませすぎても、うまく聞こえない。親子の距離も、たぶんそれに似ている。世間は親子を、すぐに感謝や後悔の型に入れたがる。もっと優しくすればよかった。そういう言葉は正しい。正しいが、それだけで親子を語ると、急に息苦しくなる。親子は、いつも感動的である必要はない。
母との電話も、きれいな親子愛の場面ばかりではなかった。私は外国にいて、母は日本にいる。距離は遠い。こちらが真面目に聞いていても、母は途中で「お前は馬鹿だねえ」と言う。心配しているのか、呆れているのか、笑っているのか。その全部が少しずつ混ざっていた。私は、その雑さがありがたかった。真面目な話を真面目なまま渡されると、受け取る方も身構える。けれど、そこに冗談が一つ入ると、声がやわらかくなる。温かみとは、甘い言葉のことではない。相手を少し笑える距離で、ちゃんとつながっていることだ。
親子にも、決まったパターンはない。近づく日もあれば、少し離れた方がいい日もある。重く話すと届かないことが、冗談なら届くこともある。言葉を尽くしても伝わらないことが、「馬鹿だねえ」の一言で伝わることもある。母との距離は、太い綱ではなかった。細い糸だった。けれど、その糸は案外しぶとい。必要な時に張り、重くなりすぎたら少しゆるめる。その都度、声の届く距離を測る。私にとって親子とは、そういう糸電話だった。
第五章
科学の型からこぼれるもの
科学の怖さは、間違うことより、正しく説明できた気になることにある。科学には型がある。条件をそろえる。数値を見る。仕組みをつくり、管理し、扱える形にする。その型があるから、人間は大きな力を使うことができる。私はその型を軽く見ていない。だが、型の外へこぼれるものもある。発電所の中では装置の話で済んでいたものが、ひとたび外へ出れば、海の話になる。魚の話になる。食卓の話になる。不安の話になる。数値で説明できることと、人が安心できることは同じではない。
原子力のことが頭から離れないのは、技術の話が技術だけで終わらないからだ。放射能が漏れる。海に流れる。海産物が避けられる。遠い場所の出来事のように見えても、生活は一気につながってしまう。そこで必要なのは、賛成か反対かを急ぐことではない。ひとつの方面からだけ見ないことだ。専門は強い。だが、専門だけで見ると狭くなる。化学の方面から、働く人の方面から、海の方面から、食べる人の方面から、次の世代から。どんな方面からも考えてみる必要がある。
科学の型は、世界を整えるためにある。だが、その型を信じすぎると、型の外側にいる人間が見えなくなる。きれいに処理されたはずのものが、どこかで誰かの不安になる。問題は、技術が正しいかどうかだけではない。その技術の外側で、誰が何を引き受けるのかだ。若い人には、科学を怖がれと言いたいわけではない。むしろ、科学を狭く使うなと言いたい。便利さも、面白さも、危うさも、同じ場所にある。型からこぼれるものを、面倒だからといって見ないふりはできない。そこに生活がある。未来がある。科学を疑うのではない。科学の型だけで世界を閉じない。その慎重さを、次の人たちには持っていてほしい。
第六章
坊さんにもなりきれない
肩書が変わっても、人間はそんなに簡単には清くならない。坊さんという言葉には、どこか整った響きがある。欲を離れ、迷いの外側に立つ人。世間はそういう型で見たがる。けれど、実際の私は、そこにすっぽり入れるほど器用ではなかった。会社で身についた考え方も、妙な照れも、冗談で逃がす癖も、寺に入ったくらいでは消えない。
むしろ寺に来て見えたのは、信仰という型の強さではなく、自分がどれほど型に入りきらないかだった。良寛さんのように、子どもらと交わり、静かに暮らす。そういう姿に惹かれたことはある。だが、憧れの型をそのまま着れば、その人になれるわけではない。袈裟をかけても、会社勤めの身体は残る。寺男という言葉も、ちょうどいい。偉そうな肩書ではない。掃除をし、用事をし、そこにある一日を動かす人の名前である。信仰を語る前に、身体を使う。そのくらい生活に近い方が、私には合っていた。
坊さんにもなりきれないというのは、失敗ではない。むしろ、そのなりきれなさが、人間を人間のまま保ってくれる。最初から完成した顔で語る人は、聞いている側を少し窮屈にする。迷いのない人の言葉は立派だが、立派すぎる言葉は、ときに逃げ場をなくす。私は、きれいな悟りより、うまく入れなかった型の縁に腰を下ろしているくらいがちょうどいい。
人は、変わろうとするときほど、新しい型に飛びつく。転職すれば変われる。寺に入れば救われる。だが、場所が変わっても、人間は昨日の続きからしか始められない。だから私は、坊さんにもなりきれない自分を、あまり悪く思っていない。なりきれなかった分だけ、簡単な救いを信じすぎずに済んだ。信仰の型に入りながら、そこから少しはみ出している。その半端さこそ、私にはいちばん正直な信心である。
第七章
百グラム六十円の漱石
高尚なものほど、量り売りされた瞬間に本当の顔を見せる。古本市で、夏目漱石が百グラム六十円で売られている。そう聞いただけで、少し笑ってしまう。文学史の大看板であり、教科書の中では重々しく扱われる漱石が、そこでは重さで値段をつけられている。本の中身ではなく、紙の分量で測られている。失礼なようでいて、妙に正直でもある。
短歌が面白いのは、そういうズレを逃がさないところだ。感動的な景色だけを詠むものではない。日常の端に引っかかったものを、五七五七七の中へ放り込む。すると、ただの出来事が少し斜めから光り出す。短歌は、楽しいものだと思う。楽しいというのは、軽いという意味ではない。重たいものを、その重さのまま少し横へずらせるということだ。真正面から語れば説教になることも、短歌に入れると、笑いながら受け取れる。
型があるから、遊べる。何でも自由に書いていいと言われると、かえって言葉はだらしなくなる。五七五七七という窮屈な枠があるから、そこへ何を入れるかで人の癖が出る。きれいな花を入れる人もいる。私はそこに、百グラム六十円の漱石を入れたくなる。短歌は、人生を美しく整えるためだけのものではない。むしろ、日常の変な値札を見逃さないための道具だと思う。見慣れたものの角度を少し変える。
漱石が量り売りされることで、文学は神棚から下りてくる。読まれる本ではなく、手に取られ、積まれ、売られ、また誰かの部屋へ行く紙の束になる。そこに私は惹かれる。人生も同じだ。立派な意味をつけすぎると、急に遠くなる。けれど、少し笑える重さで測ると、手に持てるものになる。百グラム六十円の漱石は、文学への冒涜ではない。型の中に、生活の可笑しさを滑り込ませるための、最高の入口である。
第八章
八十二歳の現在地
老いを美しく語った瞬間、老いのいちばん面倒なところが消えてしまう。老いは、達観だけではできていない。穏やかな微笑み、静かな余生。そういう絵にすれば収まりはいい。だが、実際の老いはもっと不格好だ。頭が前ほど働かない。身体がついてこない。言葉を探すのに時間がかかる。そこに、かっこよさはあまりない。
だから私は、自分を老いぼれと言うことにした。きれいな言葉ではない。けれど、今の感覚には近い。八十二歳という数字だけなら、ただの年齢で済む。だが、年齢の上に、コロナで受けた消耗が乗る。頭も身体も、前とは違う。だから、老いぼれ。格好悪いが、嘘は少ない。ただし、老いぼれは終わりという意味ではない。ここを間違えたくない。老いた人間を、すぐに「もう終わった人」として扱うのは雑である。返事の速度は落ちる。だが、返事をしないわけではない。むしろ、時間がかかるからこそ、軽く答えられないだけかもしれない。
若い頃は、すぐ動けることが力に見える。だが、老いてくると、即答できないことの中にも意味があると分かってくる。頭の中を探る。会社のこと、寺のこと、母のこと、科学のこと、短歌のことが、ごちゃごちゃに置かれている。その中から今に使えるものを探す。これは、遅くなっただけの反応ではない。今の条件で、もう一度考え直す作業である。
老いを、きれいな結論にしてはいけない。人生の総まとめにもしたくない。八十二歳の現在地は、ゴールではなく、まだ途中の足場だ。足場はぐらつく。見晴らしもよくない。だが、そこからしか見えないものがある。老いぼれたからこそ、派手なことは言えなくなるが、その分、言葉を軽く投げられなくなる。私はまだ対応中である。立派な晩年を演じるつもりもない。格好悪い現在を抱えたまま、聞かれたことに返事をする。老いぼれとは、止まった人ではない。遅くなった足で、まだ現実に追いつこうとしている人間のことである。
第九章
役に立つところだけ持っていけ
人の話は、丸ごと信じるものではなく、使えるところだけ拾えばいい。私は、自分の話を模範にしてほしいとは思わない。こう生きればいい、そんな便利なものを渡せるほど、人生は簡単ではない。むしろ、私の話の中には、いい加減なところも、半端なところも、説明しきれないところもある。そこまで含めて、人間の話である。だから、役に立つところだけ持っていけばいい。
母との冗談でもいい。DNAから逃げきれない感覚でもいい。科学を一方向から見ないことでもいい。坊さんにもなりきれなかった半端さでもいい。全部を分かろうとしなくていいし、全部に納得する必要もない。大事なのは、人の人生を新しい型にしないことだ。誰かの言葉に感動した瞬間、人はそれを自分の正解にしたくなる。だが、他人の型は、そのまま着るとたいてい窮屈になる。似合う部分だけ切り取ればいい。合わないところは置いていけばいい。むしろ、違うと思った部分にこそ、自分の考え方が出る。
結局、パターンを持たない生き方とは、自分だけの特別な生き方ではない。誰にでも、血の型、仕事の型、家族の型、年齢の型がある。それをそのまま着るのか、少し直すのか、脱ぐのか、別の布と縫い合わせるのか。その判断を、誰かに丸投げしないというだけのことだ。この話が役に立つなら、持っていけばいい。役に立たないなら、置いていけばいい。人生は、人の言葉を全部背負うには長すぎるし、重すぎる。必要なところだけ拾い、自分の場所で組み替える。そのとき、少しでも考えるきっかけになれば、それで十分である。
人生は、少し余るから読める。少しはみ出すから、まだ考える余地がある。
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