東京都
音楽教育者
音楽の入口をひらく人。音楽を嫌いにする前に、大人ができること。「できない」は、誰がつくったのか。
第一章
楽しいはずのことまで、なぜ苦行にするのか
楽しいはずのことを苦行にした瞬間、人は才能ではなく入口でつまずく。私は音楽を、つらさで鍛えるものだとは思っていない。楽譜が読めない。歌うのが嫌い。じっと座って鉛筆を持ち、プリントをこなすだけで体が固まる。そんな子を見て、大人はすぐ「苦手なんだね」と言う。でも本当にそうだろうか。音楽が苦手なのではなく、音楽に入る扉が重すぎただけかもしれない。
小学校や中学校の音楽は、私の記憶では歌うことが中心だった。歌わされるだけでは、音は自分のものになりにくい。リズムを体で感じる。楽器に触れる。叩けば音が返ってくる。その驚きがあって初めて、人は「もう一回やりたい」と思う。子どもに必要なのは、正解を急がせることではなく、音の中で遊ばせることだ。
だから私は、最初から楽譜を読ませようとは思わない。音符の名前を覚える前に、音がどこから来るのか、体がどう反応するのかを味わってほしい。入口が軽くなれば、できない子は少しずついなくなる。音楽なんて、もっと気軽でいい。楽しく、面白く、簡単に学べばいい。苦労したり、苦しかったりすることを、美徳にしなくていい。音楽嫌いをつくっているのは、音楽ではない。ちゃんとやらせようとしすぎる大人のほうかもしれない。
第二章
「できない子」は、誰がつくったのか
できない子をつくるのは、才能の不足ではなく、入口を重くする大人だ。楽譜が読めない。音符の長さがわからない。歌わされるだけで面白くない。そうやって音楽を嫌いになる子は、きっと少なくない。私は、その子たちを「音楽が苦手な子」と呼びたくない。ただ、最初の扉がその子の体に合っていなかっただけだと思う。
学校の音楽は、歌うか鑑賞するか、という記憶が強い。もちろん歌うことも大事だ。でも、音を楽しむ方法はそれだけではない。手を叩く。リズムを歩く。木琴を鳴らす。音符を絵や生活の中のものに置き換える。机に座って鉛筆だけで覚えるより、体で触れたほうが先にわかる子もいる。身体が先にわかれば、頭はあとからついてくる。
子どもは怠けているのではない。わからないまま置いていかれると、自分には向いていないと思い込むだけだ。だから私は、できる子を選ぶより、できないと思い込む前の子に入口を渡したい。音楽を閉じる鍵にするのではなく、開く扉にしたい。
第三章
わかるところまで、一緒に降りる
教えるとは、正解を渡すことではなく、わかるところまで一緒に降りていくことだ。親も、先生も、上司も、誰かを育てる立場になった瞬間に問われる。相手がわからない時、「なぜできないの」と言うのは簡単だ。でも本当は、その前に自分へ問い返さなければいけない。見本を見せただろうか。言葉を変えただろうか。その子に届くところまで、降りていっただろうか。
わからないまま怒られる苦しさを、私は知っている。何を直せばいいかわからない。説明されてもつかめない。すると人は、教え方ではなく自分を疑い始める。私は頭が悪いのかもしれない。向いていないのかもしれない。そうやって心が閉じていく。
だから子どもに「わからない」と言われると、私はまず「ごめんね」と思う。もう一度やって見せる。言い方を変える。必要なら、最初の一歩まで戻る。子どもだからわからないのではない。まだ届く形にしてもらっていないだけだ。わからない子を責める前に、大人が降りていく。そこからしか、本当の学びは始まらない。
第四章
本当の先生は、先にやって見せる
人を育てる人は、言葉で追い詰める前に、自分の手で道を見せるべきだ。「ちゃんとやって」「もっと考えて」「なぜできないの」。教える側は、つい言葉を増やす。でも、わからない人に必要なのは、説明の量ではなく、最初の一歩が見えることだ。私はそれを、ベルギーやドイツで出会った先生から学んだ。
理論や分析だけを浴びせられると、頭では聞いているのに、体が動かなくなる。反対に、何も細かく言われないまま放っておかれても、自分が何を直せばいいのかわからない。私にとって救いだったのは、そのどちらでもない先生だった。先生自身がマレットを持ち、角度や体の運びを見せてくれる。一小節ずつ、練習の仕方を実演してくれる。知らない曲なら、レッスンまでに先生が弾けるようにしてきてくれる。
そこには、教える側の手間がある。時間もかかる。けれど、その手間を省いた瞬間、学ぶ側は一人にされる。先生とは、正解を上から言う人ではない。相手が本当にわかったかどうかを、自分の目で確かめる人だ。私が子どもに向き合う時も、この感覚を忘れたくない。見せて、待って、必要なら一緒に戻る。人は、その安心があって初めて、自分の力で進める。
第五章
正しさだけの音は、人に届かない
正しさだけでは、人の心までは鳴らせない。どれだけ技術があっても、どれだけ理論を語れても、そこに感情がなければ、音はただ通り過ぎていく。イギリスで学んだ時、私はそのことを痛いほど感じた。周りの学生は、分析もプレゼンも初見も、練習量もすごかった。楽器を演奏するだけではなく、曲について一時間でも話せる。私は毎日のように圧倒され、「日本で七年間、何をやっていたんだろう」と思った。
でも、演奏を聴くうちに別の違和感が出てきた。技術はある。楽譜通りにも弾ける。音も間違えない。けれど、悲しみや切なさが伝わってこない。頭は動いているのに、心がそこにいないように感じた。完璧に近いのに、なぜか残らない音があった。
その時、私は自分の弱さの中に軸を見つけた。分析では負けるかもしれない。英語も拙い。それでも、人の心を掴む演奏をしたい。お客さんが感動する音を鳴らしたい。正しく弾くことと、届くことは同じではない。これは音楽だけではない。仕事でも言葉でも、人に届かない正しさは、まだ完成していない。
第六章
遊びは、甘やかしじゃない
入口を変えれば、子どもは「できない子」になる前に救える。音楽を教えていると、最初のつまずきは才能ではなく、楽譜の前で起きることが多い。音符の名前、長さ、五線の位置。大人には当たり前でも、小さな子にはそれだけで壁になる。まして、座って鉛筆を持ち、ドリルのように覚えるやり方が合わない子もいる。そこで置いていかれたら、音楽そのものを嫌いになってしまう。
保育の現場で木琴やマリンバを教えるうちに、私は別の入口が必要だと思うようになった。いろいろな子がいる。見て入る子、聞いて入る子、物語なら自然に近づける子。発達の特性があり、普通のやり方では手が伸びにくい子もいる。全員に同じ扉だけを用意するのは、教える側の都合でしかない。
その思いから、幼児が遊びながら音楽を学べる『このおと どこどこ』という音楽絵本を作った。五線譜に身近な絵を重ね、絵本を読んでいるうちに、音の場所が感覚でつかめるようにする。音符を「勉強」として覚える前に、物語の中で出会えるようにしたかった。遊んでいるように見えても、そこには設計がある。入口を軽くすることは、甘やかしではない。音楽を嫌いになる前に、手を伸ばせる場所をつくる責任だ。
第七章
子どもはもう、「いいね」だけでは動かない
子どもが変わったのなら、大人の言葉も更新しなければならない。今の子どもたちは、ただ「いいね」「すごいね」と言われただけでは動かない。もちろん褒めることは大事だ。でも、スマートフォンやインターネットが身近にあり、子どものほうが大人よりよく知っていることもある時代だ。こちらが何となく褒めると、「何がいいの?」と返ってくることがある。
その一言を、生意気だと片づけたら終わりだ。むしろ、こちらの言葉が浅かったのだと思う。音がそろったからいい。最後まで待てたからいい。前より手の動きがやわらかくなったからいい。そうやって具体的に伝えて初めて、子どもは自分の変化に気づける。
教える側は、子どもを昔のまま見てはいけない。子どもが変わり、環境が変わり、届く言葉も変わった。だから私も、褒め方を考え続ける。育てるとは、相手に合わせて、自分の伝え方を変え続けることだ。
第八章
真面目という暴力
真面目すぎると、人は遊び方より、我慢の仕方ばかり覚えてしまう。真面目に生きることを否定したいわけではない。約束を守る。決められたことをきちんとやる。人に迷惑をかけない。そういう日本人の勤勉さには、たしかに強さがある。でも、その強さがいつの間にか、自分を後回しにする癖になっていないかと思う。
母親だから我慢する。先生だから崩れない。大人だから遊ばない。こうでなければだめだと、誰かに言われたわけでもないのに、自分で自分を型にはめてしまう。マニュアル通りにできることは安心かもしれない。でも、マニュアルから外れた瞬間に不安になり、イレギュラーを許せなくなるなら、それは少し苦しい。
音楽も同じだ。正しくやることばかりを先に置くと、本来の楽しさが消えてしまう。うまくできるかより、まず鳴らしてみる。予定通りに進むかより、思いがけない音を面白がる。大人になっても、少しくらい子どもっぽくていい。真面目さを捨てる必要はない。ただ、真面目さだけで生きなくていい。毎日の中に、もっと遊び心を入れる。その余白が、人を少し自由にする。
第九章
境内で鳴らした音は、まだ鳴っている
叱られなかった経験が、その人の出発点になることがある。音は、私にとって最初から「正しく扱うもの」ではなかった。触れば返ってくるものだった。実家は寺で、木魚や銅鑼、鐘の音が身近にあった。神聖な場所に置かれたものなのに、子どもの私はそれをガンガン鳴らしていた。近所の人からしたら「何の音だ」と思ったかもしれない。でも、私は特に叱られた記憶がない。
あとから考えると、それはとても大きかった。音の前で身構えなくてよかった。説明を聞く前に、手を出してよかった。鳴らしたら響く。その響きが面白い。そういう体の記憶が、今の私の中に残っている。
机に座って鉛筆を持ち、プリントをこなすような勉強は苦手だった。でも、体を動かして覚えることは自然に入ってきた。だから今も、子どもに最初から正しさを求めたくない。音は遠くに飾るものではない。触って、鳴らして、失敗して、自分のものにしていくものだ。あの頃の感覚が、今の私の教え方につながっている。
第十章
ちゃんとする前に、鳴れ
自分をご機嫌にできない大人は、誰かを安心させることも難しい。母親だから、先生だから、大人だから。そうやって役割の名前をかぶるほど、人は自分を後回しにしやすい。しっかりしなければならない。間違えてはいけない。家族のため、生徒のため、職場のため。気づけば、自分が楽しいかどうかを考えることさえ忘れてしまう。
でも、私は思う。どんな立場であっても、人生の主役は自分だ。子どもを主体にすることが大事だと言うなら、大人だって自分を主体にしていい。自分が楽しく、生き生きして、ご機嫌でいられるか。そこを置き去りにしたまま、誰かを育てたり、支えたりするのは難しい。
ご機嫌でいることは、わがままではない。家庭や夫婦や職場を少し平和にするための、現実的な力だと思う。ちゃんとする前に、自分の音を鳴らす。正解を探す前に、自分がどう感じているかを聞く。子どもも、大人も、もっと鳴っていい。誰かの期待に合わせて静かになるより、自分の音を持って生きる。そのほうが、きっと人にも優しくなれる。
音楽嫌いをつくっているのは、音楽ではない。ちゃんとやらせようとしすぎる大人のほうかもしれない。
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