星座出版星座へ ↗7分で読めます
森野 祐治
東京都
格闘家

自分の人生から降りなかった人。でも、自分の人生からは降りるな。逃げるな、とは言わない。

第一章
自分の人生から、降りるな

人生の主役を降りた瞬間、人は誰かの人生の評論家になる。僕は、そういう人をたくさん見てきた。人の挑戦を笑う人。失敗した人を待ってましたとばかりに叩く人。環境が悪い、時代が悪い、親が悪い、会社が悪いと、いつまでも自分以外の何かに人生のハンドルを預けている人。でも、本当はみんなわかっている。文句を言っている時間で、自分の人生は一ミリも前に進んでいない。それは強さではない。逃げだ。

僕が思う強さとは、人を倒す力ではない。大きな声で相手を黙らせることでもない。強さとは、自分の人生を他人に渡さないことだ。誰かのせいにしたくなる日がある。そう思うこと自体は、人間だから仕方がない。僕にもある。悔しいことも、理不尽だと思うこともある。でも、そこで止まったら終わりだ。

人生には、どうにもならないことがある。生まれた場所も、家庭環境も、時代も、最初から選べるわけではない。だけど、その先でどう動くかは自分で選べる。腐るのか。逃げるのか。人を恨むのか。それとも、そこから立ち上がるのか。主役というのは、目立つ人のことではない。自分の人生に責任を持っている人のことだ。うまくいったときだけ前に出るのではなく、失敗したときも、自分の足でそこに立っている人のことだ。

逆に、脇役で終わる人は、いつも誰かの物語の中にいる。誰かを羨ましがり、誰かのせいにして、自分の人生を見ない。自分のページをめくらずに、他人の本ばかり読んでいる。そんな生き方は、もったいない。派手じゃなくていい。誰かに認められなくてもいい。ただ、自分で選んだと言える人生を生きることだ。逃げたとしても、もう一度戻ればいい。負けたとしても、そこから立てばいい。

強い人間とは、失敗しない人間ではない。失敗しても、自分の人生から降りない人間だ。だから僕は思う。人生を脇役で終わらせるな。誰かの評価に振り回されるな。過去の傷を言い訳にするな。自分の人生を、他人の手に預けるな。自分の物語を、自分で動かせ。

第二章
憧れは、身体を動かす

本物の強さは、才能ではなく、自分より大きなものの隣に立つ覚悟で決まる。テレビの中で見ていた人間が、同じ空間にいる。名前を聞くだけで身体が反応するような人間が、目の前で汗をかき、黙って準備をしている。その瞬間にわかる。強い人間は、画面の中で完成しているわけではない。見えない場所で、毎日自分を削っている。

僕にとって、K-1はヒーローだった。子どもの頃、ウルトラマンにはなれないと思った。でも、K-1選手にはなれるかもしれないと思った。ウルトラマンは物語の中の存在だ。でも、ピーター・アーツは現実にいた。リングに立ち、相手と向き合い、人を熱狂させていた。強さというものが、初めて現実のものとして見えた。

人は、憧れたものにしか本気になれない。最初から高尚な理由なんていらない。かっこいい。勝ちたい。あんなふうになりたい。その衝動があるから、人は動き出せる。理屈で始めたものは、理屈でやめる。でも、身体の奥で火がついたものは、簡単には消えない。

ただ、僕の人生は格闘技だけで一直線だったわけではない。バイオリンもあった。ダンスもあった。ジャニーズの最終選考まで行ったこともある。でも、僕には全部つながっている。音を聞く。リズムを取る。間を読む。人の動きを見る。自分の身体を思った通りに動かす。これは、リングの上でも同じだ。殴る、蹴るだけでは勝てない。相手の呼吸を読む。入るべき瞬間を逃さない。格闘技は、力任せのぶつかり合いではない。極限まで削ぎ落とされた、身体同士の会話でもある。

第三章
「大丈夫」は、逃げない人の言葉

マーク・ハントとの時間も、僕にとって大きかった。観光のつもりで行った場所が、気づけば修行になる。朝五時に起きる。肉体労働をする。ジムに行く。予定通りではないことが次々に起こる。そして突然、試合の話が来る。

普通なら、無理だと言える。準備ができていない。環境が違う。相手がわからない。言い訳はいくらでも作れる。でも、そこで逃げたら、自分の人生のページは進まない。

チャンスは、きれいな形では来ない。わかりやすい招待状を持って来るわけでもない。むしろ、無茶な顔をして現れる。疲れているときにくる。怖いときにくる。予定が崩れたときにくる。そのときに、やるのか、やらないのか。そこで、その人の人生の向きが決まる。

第四章
怪物の隣で、自分の小ささを知った

正道会館に入ってから、僕はテレビの中にいた怪物たちの近くに立つようになった。曙さんがいる。チェ・ホンマンさんがいる。画面の向こう側の存在だった人たちが、同じ場所にいる。最初は現実感がなかった。でも、近くにいるとわかる。怪物は、ただ身体が大きいから怪物なのではない。背負ってきたものが大きいから、怪物なのだ。

そういう人たちは、いちいち言い訳をしない。調子が悪い日もあるはずだ。怖さもあるはずだ。それでも準備する。やると決めたら、そこに立つ。その背中を見るだけで、自分の甘さが見える。怪物たちの隣に立つというのは、自分も怪物になったということではない。むしろ逆だ。自分の小ささを思い知らされる。足りないものが見える。でも、それでいい。人は、自分より大きなものの隣に立ったときにしか、自分の器を広げられない。

安全な場所にいれば、傷つかない。失敗もしない。笑われることもない。でも、その代わり、何者にもなれない。人生を主役で生きる人間は、安全な場所で評論している人ではない。怖くても、場に出る人間だ。

僕が怪物たちから教わったのは、才能の話ではない。覚悟の話だ。強い人間は、特別な場所に生まれたから強いのではない。呼ばれた場所に立ち、振られた勝負から逃げず、自分の責任で前に出るから強くなる。人生を変えるのは、完璧な準備ではない。自分より大きなものの隣に立つ勇気だ。そこに立ったとき、人は初めて、自分の小ささではなく、自分の可能性を知る。

第五章
強い人は、人を壊さない

強さの最後の姿は、勝つことではなく、誰かを壊さない余裕になる。弱い人ほど、すぐに相手を傷つけようとする。大きな声を出す。威圧する。正しさを振りかざす。自分が不安だから、誰かを下に置いて安心しようとする。でも、それは強さではない。強く見せているだけだ。本当に強い人間は、むやみに人を攻撃しない。勝てるからこそ、勝ち方を選ぶ。言えるからこそ、言い方を選ぶ。倒せるからこそ、倒さない。

第六章
負けた日の顔に、人は出る

僕は、人生を勝ち負けだけで見ていない。リングの上では勝者と敗者がはっきり分かれる。でも、人生はそう単純ではない。負けたように見える瞬間に、その人の本当の強さが出る。うまくいかないときに、どんな顔をするか。追い込まれたときに、誰のせいにするか。誰も見ていないときに、自分との約束を守れるか。そこに、その人の人生の主役度が出る。

勝った人だけが、強いわけじゃない。負けたあとに、どんな顔で立っているか。うまくいかない日に、誰のせいにしないでいられるか。そういうところに、人の強さは出る。

第七章
優しさは、強さの最後の形だ

僕は、優しさという言葉が少し軽く使われすぎていると思っている。何も言わないことを優しさと呼ぶ。嫌われないように距離を取ることを優しさと呼ぶ。相手が間違っていても、波風を立てないことを優しさと呼ぶ。でも、それは優しさではなく、ただの放置かもしれない。本当の優しさには、責任がいる。相手のために嫌われる覚悟。間違っていることを間違っていると言う覚悟。自分が面倒を背負う覚悟。それがなければ、人には関われない。

強い人間は、他人に厳しいのではない。自分に対して逃げていないから、人にも本気で向き合えるのだと思う。自分をごまかしている人は、人の痛みにも向き合えない。けれど、自分が崩れたことのある人間は、人が崩れる理由を知っている。だから、簡単には見捨てない。

昭和という時代には、今では乱暴に見えるものもあったと思う。根性、我慢、上下関係、男らしさ。何でも美化すればいいわけではない。でも、その中にあった責任感まで捨ててはいけない。誰かのために踏ん張る。約束を守る。受けた恩を忘れない。自分がもらったものを次の人に渡す。その精神は、時代が変わっても残す価値がある。

僕が残したい強さは、人を従わせる強さではない。人を守れる強さだ。自分の機嫌を自分で取る。自分の失敗を人のせいにしない。苦しいときでも、誰かに八つ当たりしない。言うべきことは言う。引き受けるべきものは引き受ける。そういう小さな積み重ねが、最後にはその人の優しさになる。

人生を脇役で終わらせないというのは、自分だけが目立てばいいということではない。自分の人生を自分で引き受けた人間だけが、誰かの人生にも本気で関われるということだ。自分から逃げている人間に、人を救うことはできない。強くなるとは、勝ち続けることではない。誰かを見下さなくても立っていられることだ。自分の人生を他人に渡さず、それでも他人に手を差し出せることだ。強さは、最後には優しさに変わる。変わらない強さは、ただの暴力だ。

強い人間とは、失敗しない人間ではない。失敗しても、自分の人生から降りない人間だ。

← スクロール / 矢印キーで読み進む