星座出版 / 2026.06.30
コラム
第一章
感動を消費する時代
感動という言葉は、他人の人生にただ乗りするときにも使えてしまう。スポーツを見て、すごいと思う。胸が熱くなる。それは自然なことだ。けれど、それをすぐに「感動した」「ありがとう」と言ってしまうところに、ぼくは少し引っかかる。だって、その勝利のために汗をかいたのはぼくではない。苦しい練習をしたのもぼくではない。他人の勝利は、ぼくの達成感ではないのだ。
本当の感動は、もっと小さくて、もっと自分の体に近いところから出てくると思う。子どもが自分で布団を畳めるようになる。補助輪なしで自転車に乗れるようになる。昨日までできなかったことが、今日できるようになる。その瞬間、人は少しだけ自分を信じられる。その手応えが、次に生きる力になる。大きな試合を見て泣くことより、誰にも見られていない場所で小さく何かを達成することのほうが、人を深く変えることがある。
もちろん、物語や映画やスポーツに心を動かされることはある。人の努力を見て、自分も頑張ろうと思うこともある。だから、他人の感動を全部否定したいわけではない。ただ、自分のなかから湧いたものと、外から借りてきたものを混ぜてはいけない。借り物の感動ばかり浴びていると、自分の人生で何を達成したいのかが薄くなる。小さなことでいい。自分でやって、自分で届いたという感覚を持ったほうがいい。その感覚だけが、自分の人生を前に進める燃料になる。
第二章
想像力まで商品になった
想像力を育てたいと言いながら、大人は子どもに完成品を渡しすぎている。昔の遊びが偉かったと言いたいわけではない。ただ、ないものをないまま終わらせず、あるものを別のものに見立てる力は確かにあった。棒を持てば刀になった。布を首に巻けばマントになり、顔に巻けば忍者になった。危ないこともあったし、今なら怒られることも多いだろう。でも、その手つきのなかに、頭のなかの夢を少しずつ形に近づける喜びがあった。
今は、欲しいものが先に並んでいる。物語のなかで新しいアイテムが出る前から、店にはそのおもちゃが置かれている。画面のなかで「想像力」と言いながら、現実では答えが先に売られている。子どもに想像してほしいと言いながら、大人は想像する前の余白を奪っている。こうなったらいいな、これで代わりにならないかな。そうやって何度も試す時間こそ、想像力の本体だったのではないか。
便利になったことを悪く言うのは簡単だ。でも、問題は便利さそのものではない。何もない場所に何かを見る力を、どこで育てるのかということだ。AIも機械も、きれいなものをいくらでも作るようになる。だからこそ、人間は何を手放してはいけないのかを考えたほうがいい。答えを受け取るだけの人間になるのか。足りないものを前にして、それでも自分で形にしようとするのか。想像力とは、与えられたアイテムの名前ではない。ないものを前にして、まだ遊ぼうとする力のことだ。
第三章
昭和を語るなら、令和を見ろ
正しいことは、正しいだけでは届かない。相手のいる時代、相手の置かれている条件、相手が何に苦しんでいるかを見ないまま言葉を投げれば、どんなに大切な話でもただの小言になる。昔のほうが良かった、今の人は弱くなった、便利になって心が貧しくなった。そういう言い方は簡単だ。けれど、そんな切り口では何も解決しない。だいたい、昔が良かったわけではない。人は良くなりたいと思ったから、暮らしを変えてきた。今を否定するだけなら、それはただ自分の時代を守っているだけだ。
本当に伝えたいことがあるなら、まず相手を知らなければならない。今の人がなぜ急ぐのか。なぜ人の目を気にするのか。なぜ承認を求めるのか。なぜ失敗を怖がるのか。その条件を見ないで、「もっと考えろ」「もっと我慢しろ」「昔はこうだった」と言っても、届くはずがない。言っている側は助言のつもりでも、受け取る側にはうるさい声にしか聞こえない。
だから、最後に残したいのは結論ではない。問いだ。納得しないまま進んでいないか。自分の違和感を、空気に合わせて捨てていないか。他人の感動を借りて、自分の小さな達成を忘れていないか。便利さのなかで、相手を考える時間を失っていないか。ぼくが言えるのは、昔に戻れということではない。今を生きる人が、今の条件のなかで、自分の頭と心をもう一度使うことだ。大切な話なら、小言にしてはいけない。相手に届く問いとして渡さなければならない。
黙った瞬間、その場の流れに一票を入れている。
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