前澤友作

1975 -

スタートトゥデイ、ZOZO創業者

藤田晋

1973 -

サイバーエージェント創業者

三木谷浩史

1965 -

楽天創業者

豊田章男

1956 -

トヨタ自動車会長/社長

柳井正

1949 -

ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長

似鳥昭雄

1944 -

ニトリ創業者

松下幸之助

1894 - 1989

パナソニック創業

時代を継いで語られる

日本の代表的起業家

1890

1980

同時代の経営者たち

京セラ・KDDIを創業しJALを再建した稲盛和夫が、判断の拠り所とした問い。

動機善なりや、私心なかりしか

KAZUO INAMORI

京セラ・第二電電/KDDI創業 JAL再建

1932 - 2022

星座出版
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稲盛和夫
1932 - 2022 京セラ・第二電電/KDDI創業 JAL再建
KAZUO INAMORI

鹿児島の片隅に生まれた一人の青年が、やがて京セラを世界企業へと育て、第二電電を起こして通信の自由化を切り拓き、晩年には日本航空の再建という難事業を成し遂げた。稲盛和夫の生涯を貫いたのは、技術への執着でも経営の才覚でもなく、ただ一つの問いであった。「動機善なりや、私心なかりしか」。その自省の言葉が、いかにして一人の経営者を稀有な存在たらしめたのか。ここにその足跡をたどる。

第一章
鹿児島の少年

稲盛和夫は一九三二年、鹿児島市に生まれた。印刷業を営む家に育ち、決して恵まれた境遇とはいえなかった。家族の情に厚い土地柄のなかで育った彼は、人と人との結びつきを何より重んじる気質を、幼いころから身につけていったといわれる。

少年期には結核を患い、死の恐怖と隣り合わせの日々を過ごしている。病弱な体に苦しみながら、彼は人の生死や心のあり方について早くから考えを巡らせるようになった。病床で手にした宗教的な書物が、後年まで彼の精神の底流をなす「心の持ち方が人生を決める」という確信を芽生えさせたといわれる。この時期に芽吹いた精神への関心は、後年の経営哲学にまで一貫して流れ込んでいく。

進学の道も平坦ではなかった。希望した中学への進学に失敗し、大学受験でも望んだ道を歩めなかった。地元の鹿児島大学工学部に進み、応用化学を学ぶ。順風満帆とはほど遠い青春であった。しかしこの度重なる挫折こそが、後の稲盛に「努力を尽くしてなお及ばぬとき、人は何を頼みとするか」という問いを残したのである。

就職もまた苦難であった。戦後の混乱期、地方大学の卒業生に開かれた門は狭く、彼がようやく職を得たのは京都の碍子メーカーであった。給料の遅配が続くような苦しい会社で、入社した同期は不満を募らせ、次々と去っていった。残された稲盛もまた、はじめは世を恨み、境遇を嘆く一人であった。

第二章
研究室での原点

やがて稲盛は、自らの態度を根本から改める。会社や境遇に不平を言ったところで何も変わらない。ならば目の前の研究に全身全霊を注ごう――そう心を定めたとき、彼の人生は静かに転回した。彼が取り組んだのは、ファインセラミックスと呼ばれる新しい素材の開発であった。寝食を忘れ、来る日も来る日も実験に没頭しながら、彼は当時の日本では容易に成し得なかった素材の合成に成功していく。

不思議なことに、仕事に没頭すればするほど、心を蝕んでいた不満や雑念は消えていった。そして集中のなかから、思いがけない成果が次々と生まれた。「働くことそのものに、人の心を磨き、人生を好転させる力がある」――この体験は、稲盛の人生観を決定づけた。労働を苦役とみるのではなく、自己を高める修行ととらえるその姿勢は、後年の彼の経営哲学の根に据えられることになる。

しかし、研究の方向性をめぐる社内の軋轢から、彼はやがて会社を去る決意をする。彼の技術と人柄に惚れ込んだ周囲の支援者たちが資金を出し合い、一九五九年、京都に小さな会社が産声を上げた。京都セラミック、後の京セラである。わずかな人数で始まった町工場が、世界に冠たる企業へと育っていく長い道のりの始まりであった。

第三章
創業と苦闘

創業当時の稲盛はわずか二十七歳。経営の知識も後ろ盾もなく、頼れるものは自らの技術と、ともに立ち上がった仲間たちだけであった。彼はこの「仲間との心のつながり」こそ会社の基盤であると考えた。出資比率や肩書ではなく、人としての信頼に経営の根を置こうとしたのである。この発想は、利害でつながる集団ではなく、心でつながる集団をつくろうとする、生涯変わらぬ姿勢の表れであった。

創業から間もないころ、入社して日の浅い若い社員たちが、将来の待遇を保証せよと詰め寄ったという。経営の先行きもおぼつかぬなか、稲盛は彼らと幾日も語り合った。そして思い至る。会社とは、創業者の夢を遂げる道具ではなく、そこに集う人々の人生を背負う場なのだと。彼はついに、社員とその家族の幸福を追求することを会社の第一の目的に据えると決意する。この出来事は、京セラの経営理念――「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」――の出発点となった。

技術力を武器に、京セラは半導体や電子部品の分野で着実に地歩を固めていく。下請けに甘んじて言われたものを作るのではなく、自社の独自技術で勝負する道を選んだ稲盛の姿勢が、やがて世界市場での競争力へと結実していった。注文を受ければ、たとえ不可能と思われる仕様であっても「できません」とは言わず、必死の努力でやり遂げる。その積み重ねが、京セラの信用を一つひとつ築いていったのである。

第四章
心に基づく経営

稲盛の経営を語るうえで欠かせないのが、「京セラフィロソフィ」と「アメーバ経営」である。前者は、人間として何が正しいかを判断の基準とする一連の考え方であり、後者は組織を小さな採算単位――アメーバ――に分け、現場の一人ひとりが経営者の意識を持つ仕組みである。この二つは車の両輪のように、彼の経営を支えた。

アメーバ経営においては、各単位が独立採算で運営され、自らの努力が数字となって明確に現れる。これにより、社員は自分の働きが会社にどう貢献しているかを実感し、与えられて働く者から自ら考えて働く者へと変わっていった。稲盛はまた、誰もが理解できる単純明快な会計を貫くことを強く求めた。経営の実態を一部の者が独占するのではなく、すべての社員に開いて共有すること。それが当事者意識を育てる土壌になると考えたのである。

そして彼が何より重んじたのが、判断に際して自らの動機を問い直すことであった。「動機善なりや、私心なかりしか」――事を起こすとき、その動機は善きものか、そこに私利私欲は混じっていないか。この自問を、稲盛は大きな決断のたびに自らに課したという。利を求める心や名誉欲から発した事業は、たとえ一時の成功を収めても長くは続かない。世のため人のためという純粋な動機から出発してこそ、事は天の助けを得て成る――彼はそう信じていた。経営とは、つまるところ経営者の心のあり方の反映なのであった。

第五章
通信への挑戦と社会への展開

一九八〇年代、日本の電気通信事業が自由化されると、稲盛は新たな挑戦に踏み出す。長く独占が続いた通信の世界に競争を持ち込み、国民が安い料金で電話を使えるようにしたい――その思いから第二電電(DDI)を設立した。巨大な既存企業を相手にしたこの事業を、誰もが無謀と見た。だからこそ稲盛は、半年ものあいだ毎晩のように「動機善なりや、私心なかりしか」と自らに問いかけたという。自分が名を上げたいからではないか、私心はないか――その問いに曇りなく「然り」と答えられたとき、彼は初めて決断した。DDIは後に合併を経てKDDIとなり、日本の通信に競争と料金低下をもたらした。

また稲盛は、自らの経営哲学を志ある経営者に伝える場として「盛和塾」を主宰した。利益の上げ方の技術ではなく、人としての生き方や心のあり方を説くその教えは、国内外の多くの中小企業経営者に影響を与えた。彼は塾生に向かい、立派な経営者である前にまず立派な人間であれと繰り返した。彼にとって経営とは、究極には人を育て、人を幸福にする営みであった。

さらに私財を投じて稲盛財団を設立し、科学や文明、精神文化の分野で顕著な功績を残した人々を顕彰する「京都賞」を創設した。事業で得たものを社会に還元し、人類の進歩に貢献する――それは創業の理念に掲げた「人類、社会の進歩発展への貢献」を、自らの手で実践する行いにほかならなかった。

第六章
日本航空の再建

二〇一〇年、稲盛は政府の要請を受け、経営破綻した日本航空の会長に無報酬で就任する。すでに七十代後半、しかも航空事業には門外漢であった。周囲は再建を危ぶみ、本人もまた幾度も逡巡したと伝えられる。だが彼は、日本経済への影響、残された社員の雇用、そして競争を保つことの公益を思い、再びあの問いに立ち返った。私心からではなく、世のためになるならば――そう得心して、彼は引き受けたのである。

稲盛が持ち込んだのは、特別な航空の知識ではなかった。彼はまず、社員一人ひとりの意識を変えることから始めた。フィロソフィを説いて働く意味を問い直し、アメーバ経営の手法で数字を現場に開き、誰もが採算を考える組織へと変えていった。これまで「お上の会社」のように経営を他人事と見ていた社員たちが、自らの仕事を自らの責任で担うようになる。その変化が、再建の原動力となった。

結果は驚くべきものであった。日本航空は予想をはるかに上回る速さで業績を回復させ、再上場を果たす。稲盛はこの再建を、制度や数字の力ではなく、人の心が変わったことの成果だと語った。人は正しい考え方を持ち、当事者として働くとき、計り知れぬ力を発揮する――彼の信念が、最も劇的な形で証明された出来事であった。

第七章
遺したもの

稲盛和夫が生涯を通じて説き続けたのは、人間として正しいことを正しく行うという、素朴でありながら最も難しい原則であった。彼はそれを「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という式に託しても語っている。能力や熱意がいかに高くとも、考え方が誤っていれば結果は大きな負となる。だからこそ、心のあり方こそが何より重いのだと。

二〇二二年、稲盛和夫は九十歳でその生涯を閉じた。京セラ、KDDI、そして再生した日本航空という事業の遺産は計り知れない。だが彼が残した最も大きなものは、おそらく事業そのものではなく、「動機善なりや、私心なかりしか」という問いそのものであった。利を超えてまず心を問うその姿勢は、経営という営みに精神の次元を取り戻させた。

一介の地方青年が、技術と哲学を両の手に握りしめ、世界企業を築き、社会の仕組みを変え、瀕死の大企業をよみがえらせた。その軌跡は、才能や運の物語ではない。心を磨き、私心を去り、ただ世のため人のために尽くそうとした、一人の人間の物語である。彼の遺した問いは、今も多くの人々の胸のうちで静かに鳴り続けている。

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