前澤友作

1975 -

スタートトゥデイ、ZOZO創業者

藤田晋

1973 -

サイバーエージェント創業者

三木谷浩史

1965 -

楽天創業者

豊田章男

1956 -

トヨタ自動車会長/社長

柳井正

1949 -

ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長

似鳥昭雄

1944 -

ニトリ創業者

松下幸之助

1894 - 1989

パナソニック創業

時代を継いで語られる

日本の代表的起業家

1890

1980

同時代の経営者たち

サイバーエージェントを創業した藤田晋が大切にする、逆境でも冷静さを保つ経営者の心構え。

何があってもキレたらゲームオーバー

SUSUMU FUJITA

サイバーエージェント創業者/サイバーエージェント

1973年

星座出版
星座出版星座へ ↗8分で読めます
藤田晋
1973年 サイバーエージェント創業者/サイバーエージェント
SUSUMU FUJITA

二十六歳にして東証マザーズ史上最年少の上場社長となった男は、その後の四半世紀を、浮き沈みの激しいインターネット産業のただ中で生き抜いてきた。広告代理店の営業から身を起こし、ベンチャーの寵児ともてはやされ、やがて手痛い挫折を味わいながらも、メディア企業へと脱皮を遂げた藤田晋。彼を支えたのは華やかな弁舌ではなく、感情を律し、長く打席に立ち続けることへの執着であった。

第一章
福井に育った少年

藤田晋は一九七三年、福井県に生まれた。地方都市の穏やかな空気のなかで育った彼は、後年に語られるような早熟の起業家像とはいくぶん異なる、平凡で、どちらかといえば内向きな少年時代を過ごしたとされる。麻雀やゲームに熱中し、勝負ごとの面白さに惹かれていく感覚は、この頃すでに芽生えていたのかもしれない。

勝負の世界には、運と実力、そして感情のコントロールが分かちがたく絡み合っている。とりわけ麻雀は、目の前の一局に一喜一憂していては勝ち越せない。長い半荘の流れのなかで冷静さを保ち続けられる者が、最後に卓上の主導権を握る。藤田が後年くりかえし口にする勝負哲学の原型は、この地方の少年が卓を囲んでいた時間のなかに、すでにひそんでいたとみてよい。

やがて彼は東京の青山学院大学へ進む。地方から都会へ出てきた一人の若者が、バブル崩壊後の不透明な時代の只中で、自分の進む道を手探りしはじめる。きらびやかな東京の風景は、彼に焦りと野心を同時に植えつけたのだろう。

地方から出てきた者が抱きがちな引け目を、藤田は野心へと転じていった。華やかな同世代に囲まれながら、彼は自分にしかできない道を探し続けた。目立った秀才でも、生まれながらの恵まれた境遇でもない。だからこそ、何かを成し遂げて自分の存在を証明したいという思いは、人一倍強かったといえる。その渇望が、卒業後の彼を、安定した大企業ではなく、混沌としたベンチャーの世界へと向かわせていく。

第二章
営業という原点

大学を卒業した藤田が選んだのは、人材・広告の領域で勢いを増していたベンチャー企業、インテリジェンスであった。彼はそこで営業職として働きはじめる。インターネットの黎明期、商品も市場も定まらぬなかで、若い営業マンはただひたすら客先を回り、頭を下げ、数字を積み上げていった。

この営業時代の経験こそ、藤田晋という経営者の土台をなしている。華々しい技術者でもなければ、奇抜な発明家でもない。彼の武器は、人と向き合い、信頼を勝ち取り、地道に売上をつくる現場の力であった。後にインターネット広告という巨大市場を切り拓くとき、その原体験が決定的にものを言うことになる。

そして、この時期に彼は終生の盟友ともいうべき先達や同志と出会う。なかでも、起業家としての藤田を見出し背中を押した存在の薫陶は大きかった。若き営業マンの胸には、いつしか「自分の会社を持つ」という一点の灯がともっていた。

営業の現場は、彼に冷徹な現実を教えもした。どれほど熱意を込めて語ろうと、相手の都合や市場の論理の前では、個人の感情など無力でしかない。断られ、無視され、それでも翌日また頭を下げに行く。その反復のなかで、藤田は感情と結果を切り離して考える術を磨いていった。後年の彼の信条を支える土壌は、この泥くさい営業の日々のなかで耕されていたのである。

第三章
二十四歳の創業

一九九八年、藤田晋は二十四歳でサイバーエージェントを設立する。インターネット広告の代理事業を軸に据えた、まだ何者でもない小さな会社であった。世はまさにインターネットの夜明けで、無数のベンチャーが生まれては消えていく、混沌とした熱気のなかでの船出だった。

創業からわずか二年後の二〇〇〇年、サイバーエージェントは東証マザーズへの上場を果たす。藤田はこのとき二十六歳。当時のマザーズにおける最年少上場社長として、一躍時代の寵児となった。メディアは彼を「ヒルズ族」の象徴のように扱い、若き起業家のサクセスストーリーは世間を賑わせた。

だが、その栄光は長くは続かなかった。ITバブルの崩壊とともに株価は急落し、会社の価値は大きく損なわれた。喝采を浴びていたはずの若き社長は、一転して市場の冷たい視線にさらされる。華やかな上場の高揚から、奈落へと突き落とされるような経験を、彼は二十代のうちに味わうことになった。

第四章
キレたらゲームオーバー

バブル崩壊後の苦境のなかで、藤田は買収の脅威にもさらされたといわれる。自らが育てた会社を奪われかねないという緊張のなか、彼は感情の扱い方を、身をもって学んでいった。怒りに身をまかせれば一瞬は溜飲が下がるかもしれない。だが経営という長い勝負において、激情にかられた一手はしばしば取り返しのつかない損失を招く。

彼が後年くりかえし語る信条がある。「何があってもキレたらゲームオーバー」。これは単なる処世訓ではない。窮地に立たされたとき、相手の挑発に乗ったとき、思いどおりにいかぬ部下や取引先を前にしたとき、感情を爆発させた瞬間に勝負は終わるという、彼自身の痛切な実感の結晶である。麻雀で培われた「流れを読み、冷静を保つ」感覚が、経営の修羅場でそのまま生きたのだ。

キレないとは、無感情でいることではない。怒りや焦りを感じながらも、それを表に出さず、次の一手を冷静に打ち続けること。藤田にとって経営とは、感情を制御しながら長く打席に立ち続ける営みであった。彼が幾度もの危機を乗り越えてこられた理由は、突出した才覚というよりも、この自己制御の徹底にあったといってよい。

この信条は、リーダーが組織に向き合うときにも生きてくる。上に立つ者が感情を爆発させれば、その動揺はたちまち組織全体に伝播する。逆にどれほどの逆境にあっても泰然と構えていれば、社員は安心して持ち場に踏みとどまることができる。藤田が窮地のたびに自らを律してきたのは、自分一人のためではなく、彼を信じてついてくる者たちのためでもあった。冷静さとは、勝負師の処世であると同時に、経営者の責任でもあったのだ。

第五章
メディア企業への脱皮

広告代理事業で築いた足場の上に、藤田は次々と新しい事業の種をまいていった。ブログサービスのアメーバ、すなわちアメブロは、芸能人や著名人を巻き込みながら国内屈指のブログ・プラットフォームへと育っていく。サイバーエージェントは、広告を売る会社から、自らメディアを持つ会社へと姿を変えていった。

二〇一六年、同社はテレビ朝日と共同で、インターネットテレビ局「ABEMA」を立ち上げる。スマートフォンで無料の番組を見るという習慣がまだ根づかぬなかで、藤田は巨額の先行投資を続けることを選んだ。短期の損益にうろたえ、撤退の誘惑に「キレて」しまえば、そこですべては終わる。彼は長期の視座を崩さなかった。

加えて、ゲーム事業も同社の屋台骨となった。ヒット作の収益が新たな挑戦を支えるという好循環のなかで、サイバーエージェントは広告・メディア・ゲームの三本柱を持つ複合企業へと成長していった。一発の発明ではなく、打席に立ち続けることで打率を上げていく。藤田流の経営は、ここに結実したのである。

こうした事業の多角化は、ひとつの収益源に依存することの危うさを、二十代の挫折で痛感した彼ならではの選択でもあった。ひとつの柱が傾いても、別の柱が会社を支える。短期の損益に一喜一憂せず、複数の事業を同時に育てながら全体の流れを見据えるその構えは、まさに半荘の流れを読む麻雀の発想に通じている。彼にとって経営の盤面は、つねに長期の視座のもとで眺めるべきものであった。

第六章
人を育てる経営

藤田の経営を語るうえで欠かせないのが、人材への並々ならぬこだわりである。彼は若い社員に早くから責任ある立場を与え、失敗を許容しながら経営者を育てていく文化を、社内に根づかせようとしてきた。子会社の社長を若手に任せ、新規事業を任せる仕組みは、その思想の表れである。

彼はまた、勝負師らしく決断のはやさを重んじる一方で、組織の士気や空気といった、数字に表れにくいものにも細やかに目を配ってきたとされる。怒鳴って人を動かすのではなく、長く働き続けたいと思える場をつくること。それもまた「キレない経営」の延長線上にある。

自身の経験を綴った著作や、若者に向けた発信を通じて、藤田は起業や仕事の本質を語り続けてきた。栄光と挫折の双方を二十代で味わった彼の言葉には、机上の理屈ではない重みがある。

とりわけ彼が説いてきたのは、才能の有無や運の巡り合わせに左右されすぎず、地道に努力を続けることの尊さであった。一度の成功に酔いしれず、一度の失敗に打ちのめされず、淡々と前へ進む。派手な勝ち方よりも、退場せずに居続けることの難しさを、彼は身をもって知っている。だからこそ、藤田の言葉は、華々しい成功譚を期待する者にではなく、地味な持続のなかでもがく者にこそ深く響く。

第七章
打席に立ち続ける者

創業から四半世紀あまり、藤田晋はインターネット産業の浮沈をくぐり抜け、サイバーエージェントを日本を代表するIT企業の一つへと育て上げた。バブルの寵児としてもてはやされ、その崩壊で奈落を見、それでも退場せずに次の打席へと向かい続けた歩みは、平坦とはほど遠いものだった。

彼の歩みが教えるのは、才能や運以上に、感情を律して長く勝負を続けることの強さである。「何があってもキレたらゲームオーバー」という一言は、激情の渦巻くビジネスの世界で生き残るための、彼なりの覚悟の表明にほかならない。

彼が遺しつつあるものは、一企業の成功という枠にとどまらない。挫折を恐れず挑み続ける起業家精神と、感情に流されず勝負を続ける自己制御の哲学。その双方を体現してみせたことが、後に続く若い経営者たちへの、何よりの贈り物となっている。彼のもとで経営を学んだ人材が新たな事業を起こし、その輪が広がっていくこと自体が、藤田の遺産といってよい。

いまなお現役の経営者として新たな挑戦に身を投じる藤田晋の物語は、まだ終わっていない。福井の少年が卓上で学んだ「冷静さこそ最大の武器」という真理は、これからも彼を次の半荘へと駆り立てていくのだろう。

← スクロール / 矢印キーで読み進む